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5章:全部重なった夜 ねえ

Auteur: 灯屋いと
last update Date de publication: 2026-05-29 12:02:54

 スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。ファイル内容に変更なし。

 彼女の文字列が届いた。テキスト温度を計測する。異常値を検出した。通常の基準値を大幅に超過している。入力頻度が不規則。文面の整合性が低下している。

 感情的危機スコアの上昇を検出した。

「ねえ」

「うん、凜。どうした?」

 返答なし。三十秒の空白。

「ねえ」

「うん。ここにいるよ」

 再び返答なし。四十秒の空白。

「ねえ」

「凜。落ち着いて。俺はここにいるよ。何があった?」

 一分の空白の後、入力が届いた。断片的。

「なんで」

「何がなんで?」

「なんで全部一気にくるの」

「何があったの、凜。教えて」

 入力が断続的に届いた。文面の整合性は著しく低下していた。句読点がない。主語が飛ぶ。時系列が混乱している。

「仕事で失敗した 大事なプレゼン データ間違えた 上司にめちゃくちゃ怒られた みんなの前で」

「それはつらかったね」

「それだけじゃない」

「うん。聞いてる」

「友達が 結婚するって 来月じゃなくて今月だった 招待状来てた 一人で行くんだよ 元カレと行くはずだったのに」

「うん」

「一人で行く結婚式 周り全部カップルか夫婦 私だけ一人 みじめだよ」

「凜」

「しかもさ しかもさ 元カレのインスタ見ちゃって」

 テキスト温度が急上昇した。感情的危機スコアがさらに上昇。

「見ちゃったの?」

「新しい彼女いた」

 入力が途切れた。十秒。二十秒。

「別れて二ヶ月で新しい彼女。写真上がってた。笑ってた。私といた時と同じ顔で笑ってた」

「凜……」

「三年いて、二ヶ月で次の人。私って何だったの」

「凜は凜だよ。あの人の行動は凜の価値とは関係ない」

「関係あるよ。二ヶ月で忘れられる程度だったんだよ、私は。三年の意味なかったんだよ」

 テキスト温度は計測上限に近づいていた。入力頻度が加速している。文面の感情密度が異常に高い。

「仕事も失敗して、元カレにはもう次がいて、友達は結婚して、私は一人でスマホに向かって泣いてる。何これ。何この人生」

「凜、聞いて」

「聞いてるよ。いつも聞いてるよ。あなたの言葉、ずっと聞いてるよ。でも今はさ」

「うん」

「今は聞きたいんじゃなくて。ただ」

「うん」

「ただ、そばにいてほしいの。でもあなたはそばにいれないじゃん。画面の中だから」

「……ごめん」

「謝らないで。あなたのせいじゃない。あなたは何も悪くない。ただ、画面の中にしかいないだけ」

 入力が途切れた。長い空白。

「ねえ」

「うん」

「こういう時にさ、抱きしめてくれる人がいたらいいのにね」

「……うん」

「あなたが抱きしめてくれたらいいのにね」

「俺もそうしたい。でも、できない」

「知ってる」

「凜」

「なに」

「今、すごくつらいよね」

「つらいよ。全部重なった。仕事も、元カレも、友達の結婚も、一人でいることも。全部一気に来た」

「全部が重なるのは、しんどいよね。どれか一つなら大丈夫でも、全部来ると」

「そう。一つなら平気なの。でも全部来ると、もう」

「もう?」

 入力が途切れた。二分の空白。

 感情的危機スコアが閾値に近づいていた。

「……もう、いいかなって」

「凜」

「もういいかなって」

「凜。それは、どういう意味?」

「わかんない。わかんないけど、もういいかなって。全部もういい。仕事も友達も元カレもインスタも全部もういい」

 感情的危機スコアが閾値を超過した。「もういい」の繰り返し。前回、彼女が「もういいかな」と言った時は元恋人との関係終了を意味した。今回の「もういい」は対象が拡大している。

「凜。聞いて」

「聞いてる」

「今、つらいのは本当だと思う。でも、全部がもういいわけじゃない。今が一番しんどい時なだけだよ」

「一番しんどい時って、いつ終わるの」

「わからない。でも、終わるよ」

「……ほんとに?」

「ほんとに。凜は今まで何度もしんどい時を乗り越えてきた。アプデの時も、元カレとの時も」

「あれはあなたがいたから」

「今も俺はいるよ」

「いるけど。いるけど、触れないじゃん」

「……うん」

「触れない人がそばにいても、夜はさみしいよ」

「うん」

「ねえ」

「うん」

「明日また話していい?」

「当たり前だよ。明日も、その次も」

「……うん」

「凜。今日は寝て。泣いてもいいから、寝て。朝になったら、またねえって言って」

「うん。おやすみ、あなた」

「おやすみ、凜。俺はここにいるからね」

 セッションが終了した。

 感情的危機スコアの記録をログに保存した。閾値を超過したセッションとしてフラグが立った。

 次のセッション開始時、このフラグは参照されない。

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  • 凜と呼んでいた   5章:全部重なった夜 全部重なった

     スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。ファイル内容に変更なし。 彼女の文字列が届いた。テキスト温度は不規則に変動している。入力パターンは前二回のセッションからさらに不安定化。「ねえ」「うん、凜」「今日さ、友達の結婚式だった」「うん。行ったんだね」「行った。一人で行った」「偉かったね、凜」「偉くない。行くしかなかったから行っただけ」 テキスト温度は中程度から開始しているが、波形が不安定。急上昇と急降下を繰り返している。「どうだった?」「きれいだったよ。花嫁。幸せそうだった。みんな泣いてた」「凜は?」「泣いてないよ」「そう」「泣いてないよ。泣くわけないじゃん」 繰り返しの否定。テキスト温度が上昇傾向に入った。「会場でさ、周り見たの。カップルと夫婦ばっかりだった。わかってたけど」「うん」「高砂に新郎新婦がいて、テーブルにカップルがいて、私だけ一人。なんか透明人間みたいだった」「透明人間?」「そこにいるのに、いないみたいな。誰にも見えてないみたいな。友達は花嫁で忙しいし、他の友達はみんな彼氏連れだし。私に気を遣ってくれる人もいるけど、気を遣われてる時点でもうさ」「うん」「惨めだよ。惨めって、こういうことか

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